漱石の時代

9月22日(土)に第1回勝手に文豪を読み直すミニ講演会を開催しました。

『文豪じゃない「漱石」との出会い~「坊っちゃん」「三四郎」を読み直す』と題して、川越勇二氏に語ってもらいました。一つひとつの柱立てがとても面白く、つい話に引き込まれてしまいました。そのタイトルから当日の雰囲気を味わってください。

漱石の略年譜
•1867(慶応3)江戸牛込馬場下横町(東京都新宿区)で誕生
•1890(明治23)帝国大学英文学部に入学
•1893(明治26)帝国大学卒業、大学院に進学
•1895(明治28)愛媛尋常中学校(松山)に赴任
•1896(明治29)熊本第五高等学校に講師として赴任・結婚
•1900(明治33)英国留学へ→神経衰弱になる
•1902(明治35)帰国
•1905(明治38)「我が輩は猫である」
•1906(明治39)「坊ちゃん」「草枕」「二百十日」
•1907(明治40)朝日新聞社入社「虞美人草」「野分」
•1908(明治41)「三四郎」「坑夫」「夢十夜」
•1909(明治42)「それから」
•1910(明治43)修善寺温泉で吐血「門」
•1912(明治45・大正元)「彼岸過迄」「行人」
•1914(大正3)「こころ」
•1915(大正4)「硝子戸の中」「道草」
•1916(大正5)死去「明暗」(未完・絶筆)

1、「坊ちゃん」を読み直す
「坊ちゃん」は、なぜ読まれ続けるのか?
・「坊ちゃん」を生きる楽しさ~憑依する精神
・文体のリズム・スピード
・キャラ設定の魅力~近代小説が失ったもの
・「坊ちゃん」のつっこみ力~ありえないあり方へのあこがれ
・情報のあいまいさ~「空所」の多さ
・清の無条件の愛

「坊っちゃん」情報のあいまいさ
一方的に「坊っちゃん」情報を与えられる読者~「空所」を埋める楽しさ
・「坊っちゃん」の名前
・「赤シャツ」の陰謀
・「マドンナ」「うらなり」の真意とその後
・「坊っちゃん」と「山嵐」の正義
・「山嵐」のその後
・「街鉄の技手」になる経緯

「坊ちゃん」は、スカッとしたお話なのか?
・読後の寂しさ、切なさを呼び起こすもの
・勧善懲悪?敗北?
・俗物に飲み込まれる正義(江戸と明治・西洋と日本)
・「坊ちゃん」の抱える孤独と清の愛(漱石の願い)
・漱石の精神の影「神経衰弱」「神経に異状」

漱石は、なぜ「坊ちゃん」を書いたのか?
・なぜ、わざわざ松山へ?
・執筆の自己療養的側面(妄想状態からの脱出)
・「赤シャツ」としての漱石
・江戸(清・坊っちゃん・山嵐)VS明治(狸・赤シャツ・のだいこ)

「坊っちゃん」は、なぜうまく話せないのか?
・内面の言葉の豊かさ⇔表出できない言葉
・対峙する相手へのディスコミュニケーション~代弁者としての「山嵐」
・「うらなり」への思い入れの過剰さ
・人は他者とわかりあえるか、という問題

「坊ちゃん」のディスコミュニケーション
・おれは江戸っ子だから君等の言葉は使えない、分らなければ、分るまで待っているがいい。
・こう思ったが、向こうは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ叶わないと思って、だまっていた。
・こう遣り込められるくらいなら、だまっていればよかった。
・おれはこう考えて何か云おうかなと考えてみたが、云うなら人を驚かす様に滔々と述べたてなくちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞ってしまう。
・「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」⇔「べらんめえの坊ちゃんた何だ」

2、「三四郎」を読み直す
なぜ「三四郎」は熊本から出てくるのか?
・田舎の青年が感知する東京~風俗小説としての魅力(帝大・洋食屋・小間物屋・カフェ・路面電車・散歩コース…)

・大学生が出会う「知」と「女性」と「都市」(→故郷)~純粋無垢なセンサーとしての「三四郎」

「三四郎」が生きる3つの世界
第1の世界(故郷)第2の世界(知)第3の世界(女)
母親広田、汽車の女、お光(許婚)、野々宮美禰子、与次郎よし子(野々宮の妹)

「三四郎」はなぜ、煮え切らないのか?
・「汽車の女」との一夜~あなたは余っ程度胸のない方ですね(恐ろしい・吃驚)
・「美禰子」との出会い~その拍子に三四郎を一目見た(恐ろしくなった)
・未熟さ、経験のなさ、度胸のなさ
・見る、考えるばかりで行動しない(美禰子の真意・野々宮との関係)
・先方の動きに対応できない(振り回され型の人間)
・プライド(尊い未来)、身につけてきた道徳観、倫理観~悲劇の寸前で立ち止まる力

「美禰子」は「いけすかない女」なのか?
・新時代の女
・短く謎めいた言葉⇔内面は描かれない
・確信犯?無意識?~漱石「無意識の偽善者」
・主人公は「三四郎」?「美禰子」?~結末で漱石が描こうとしたものとは…

多面的な読みが可能な「三四郎」
風俗小説、教養小説恋愛小説、青春小説心理小説、新聞小説実験小説

補足
「虞美人草」について~最初の新聞小説、なぜ、今不人気なのか?
「それから」について~漱石のターニングポイントとなった小説
「破滅的な三角関係」を描くのは、西洋の不倫小説との違い~日本近代小説の特殊性
「三四郎」「それから」「門」は三部作でいいのか?
•漱石の初期作品にしかない輝き
•後期作品の萌芽として読むことへの疑問

 

さいごに
•「文学を読む」ことの意味について~「文学は実学である」
この世をふかくゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。

だがこの目に見える現実だけが現実であると思う人たちが増え、漱石や鴎外が教科書から消えるとなると、文学の重みを感じとるのは容易ではない。文学は空理、空論。経済の時代なので、肩身がせまい。たのみの大学は「文学」の名を看板から外し、先生たちも「文学は世間では役に立たないが」という弱気な前置きで話す。

文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものなのである。そう考えるべきだ。特に社会問題が、もっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっと「実」の面を強調しなければならない。文学は現実的なもの、強力な「実」の世界なのだ。

文学を「虚」学とみるところに、大きなあやまりがある。科学、医学、経済学、法律学など、これまで実学と思われていたものが、実学として「あやしげな」ものになっていること、人間をくるわせるものになってきたことを思えば、文学の立場は見えてくるはずだ。(荒川洋治「忘れられる過去」より)

当日は日向市から高校生の参加もあり、世代感覚の違いなどいろんな意見が聞けました。一時は入りきれなくて、アーケード内に設けたモニターTVでライブ中継を見られる方もありました。

第1回街角ブックトーク(動画)