なぜ悩むのか

11月10日(土)に街角ブックトーク「勝手に文豪を読み直すミニ講演会」(「宮崎県本から始まる交流」委託事業)を開催しました。

第3回は「漱石と煩悩」と題して、3月に教員を退職して僧侶になった前川俊洋さんの話しでした。

人はなぜ悩むのか、いかにして救われるのかという仏教の根源的なテーマから、漱石の作品を読み解いていきました。

その骨子をプレゼンから抜粋いたしました。

話しの概要
①評論(講演)に著された漱石の思想。
②思想の作品への反映(私の好きな場面)
③思想と仏教との関連(Kについて)
④「こころ」に関する違和感
⑤「則天去私」

 

漱石の評論・講演
「私の個人主義」1914(大正3年)11月
「模倣と独立」1913(大正2年)12月
「道楽と職業」1911(明治44年)8月
「文芸と道徳」1911(明治44年)8月

 

講師の話

「こころ」を読むと、先生、K、お嬢さん(静)がバラバラで、相互理解が全くない。この関係に違和感を抱いた。

「三四郎」「それから」「門」「こころ」などの登場人物の三角関係のなかには、どれもコミュニケートできない人間の苦悩や淋しさが描かれている。

教師になって、作品と同時に漱石の評論(講演)などを読み、近代知識人・思想家としての漱石に励まされた。

評論(講演)の中に出てくる漱石の言葉

私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。

西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところ。

私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟った。

「自己本位」という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出した。

今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは、実にこの自我本位の四字なのであります。

朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。

自由と独立と己とに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう。(「こころ」上より)

私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽なく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。(「こころ」下先生と遺書より)

ありのままの本当をありのままに書く正直という美徳があればそれが自然と芸術的になり、その芸術的の筆がまた自然善い感化を人に与える。(講演「文芸と道徳」より)

「三四郎」の小川三四郎、里見美禰子、平岡常次郎、「それから」の長井代助、平岡三千代、安井、「門」の野中宗助、御米、「こころ」の先生、K、お嬢さん・静など、どれも意思疎通のはかられない淋しさ、孤独感が描かれている。

コミュニケートできない苦悩を「ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳に依って正に成仏することが出来る」、それが漱石の考えた「則天去私」の意味なのではないかということでした。

トークショーや意見交換では、漱石の描いた個人主義や近代的自我の淋しさや孤独は今も続いているとして、身近な職場や学校の事例、将来に対する不安などが出されました。

その自我が現代では壊れつつあるのではないかという意見も出され、今を生きる「わからなさ」という感覚、「難しいことを話す」場の大事さが求められているということになりました。

 

その後の反省会(隣の居酒屋「浜ちゃん」)でも、語り切れなかったことなど話が弾みました。

浜ちゃんもアーケード設置のモニターで見てくれていて、「文学に興味ない子も見ていて、面白かったといってた」という感想をいただきました。

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